歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

変わるもの変わらぬもの

神のごと

遠くすがたをあらはせる

阿寒の山の 雪のあけぼの

 


啄木が釧路を離れる船上で詠んだよされる歌だが、道東のどこからでも見えるランドマークである雄阿寒岳が神々しく輝く様が目に浮かぶような、美しい歌だ。

 


「アカン」という言葉の語源には諸説あって、その中の一つが「不動という意味」というもの。遠くからでも目印になる地形は古い語源を持つことが多く、地名が変化したり、当て字され意味が狂ってしまったりする場合もまた多いが、「阿寒=不動」説はなんとなく、釧路・根室地方の陸上・洋上のどこからでも見える雄阿寒岳の名前として、道理にかなっているように思える。想像だが、フジ、ノト、などと同じように、古代の旅人が目印として使用した地形として、アイヌ語で解釈すればなんとなく意味がわかるようなわからないような、的な日本列島周辺で広く使われていた古代語の一つが、その名付けのルーツであるように思う。

 


そういったランドマークや風景を眺めた時、ふと「今自分が見ているこの風景は、石川啄木も、前田正名も、松浦武四郎も見た景色なんだな」と気づく時がある。その一瞬をきっかけに、私たちは時空を越えることができる。彼らと私は確かに今、同じ景色を見ている。丸木舟で太平洋を行き来した古代の旅人も、ある日の山菜取りでふと目を上げた虹別のメノコも、その時同じ山を見た。クナシリ場所でアイヌを鞭打とうと振り上げた腕の先にも、別海の大森林地帯をブルドーザーが薙ぎ倒し、一服しながらヤカンを持ち上げた時も、常にその山はその場所にそびえていた。

 


不動に見えるランドマークに対して人の世の中は無常だ。歴史を見れば一目瞭然。帝国は滅びた。愚かな独裁者は死んだ。多くの良き行いと、最悪の悪業があった。そして人々は何も学ばず、あるいは忘れ、繰り返し口当たりのいい嘘つきに騙され、あるいは積極的に信じて、そのツケを自らの子孫が地獄の業火に投げ込まれることで支払うことを繰り返す。しかしエントロピーの法則は絶対だ。どんなことも、いいことも悪いことも、いつかは必ず終わる。自然を見ると癒されるのは、そこに繰り返される四季や循環法則が、軽挙妄動する愚かな人の世に比べて、確かなもののように思えるからかもしれない。人間の本質は石器時代ネアンデルタールたちを滅ぼした時から何も変わらず野蛮極まるままなのに、取り巻く世界は、作り出した社会はあっという間にこんなふうになってしまった。そしてそれは欲望によってますます加速しながら人すらも置き去りにして、見る間に地球環境を食い潰そうとしている。だけどまだ今は、少なくとも日本に生きる我々、自然の多目な場所に生きる人や旅行に行ける余裕のある人ならば、例えば阿寒湖にやって来さえすれば、変わらないように見える自然を感じることはできる。

 


だから私は、今日も阿寒の森を歩く。アカゲラが鳴き合うのを聞き、西日と風が木々の間を抜け、オレンジ色に照らされた雪面に描かれる芸術的な影絵を、言葉を失いながら佇んでじっと眺めて堪能し、森を抜けたボッケのある湖畔にひっそりと建つ石川啄木の歌碑にやってきた。歌碑の周りの木の枝枝、遠くに霞んで見える雄阿寒岳、そして緩み始めた風に思わず春を感じる。杜甫の「春望」が脳裏に浮かんだ。この自然は不動不変だが、優れた詩は普遍だ。今日はそんなことを思った。