阿寒湖に住み始めた頃は、
自然に何の興味もなく、
山菜なんてほぼ食べたこともなかった。
しかしうち妻の一家は山菜採りキノコ狩り大好き、
アイヌ精神に基づく自然大好き一族で、
近所おじさんおばさん達も山に入るのが楽しみな人が多く、
自然と連れて行かれるようになる。
言われるがままに目についたものを採るうちに、
自分なりにも自然の素晴らしさ、
山菜キノコの採り方を覚えていった。
同時に、うちの一家や近所のおばさん達の自然に接する愛と共感のこもったやり方に感銘を受けた。
これがアイヌなんだな、と感じた。
これがずーっと伝えられてきた精神なんだな、と実感した。
盲目で猛烈なスピードでどこかへ進む都市化と物質文明がどうしようもなく過去を消し去り、
日本から喪われた地域と伝統に根ざすライフスタイルとその魂。
ここにちょっと残されているこれがその一部なんだな、と思う。
これは俺なりにも子供たちに伝えたいし、大事にしていきたいと思っている。
そうして何年もたち、
完全にアイヌ料理の店となったポロンノはたくさんの山菜を必要とするようになり、
俺はそれなりに経験をつんで、
自分なりに新しい場所を見つけ、山菜を採りに出かけるようになった。
最初は教えられたとおり、アイヌの考えに基づいて、
「大きいのから採り小さいものは残す、間引くように採る」
の原則を守り、それをわりと忠実に実行していた。
しかし近年、このやり方はまずいのではないかと感じるようになった。
アイヌ料理に欠かせない、つまり一番量が必要な山菜は行者ニンニクである。
この山菜は一般的にも人気であり、ライバルも多く、
毎年、たくさんの人が山へと入る。
一部の業者のようにエリアのめぼしいものを全て採り切るような採り方はもちろん論外だ。自然への敬意のかけらもないやり方だと思う。
しかし、「大きいものから採り、小さいものは残す」という採り方も実は問題があるという事に気がついた。
昔のアイヌは大量に採る保存用にはタネを蒔いた後の葉や茎を利用したという話がある。その方が乾燥しやすいし保存に適しているし、なにより絶える心配がない。このやり方は、大量に保存する為に採る鮭はホッチャレのものを使うという考えと合致し、とても合理的である。
今の人間は、出始めの葉のそんなに伸びていない行者ニンニクを好む。食べるのにはそちらの方が美味いし、一番早い山菜である行者ニンニクを発見しやすいタイミングはその状態だからだ。
しかし、葉が未成熟な行者ニンニクは、花が咲くかどうかはまだわからない。しかししいていえば、太いものは花が咲き、子孫を増やす可能性が高い。
それが判別できない状態で太いものばかり選んで採ったとしたら、そのエリアの行者ニンニクは子孫をそれ以上ふやせない。結果、そのエリアの個体数は年々減って行くだろう。
ここ数年にしてようやく俺はその事に気づいた。今はある程度葉が伸びた時期を選び、大量にあるところをまず見つけ、複数生えている場所から、花のない二番目かそれ以下の太さのものを選ぶように心がけている。この方法だと集めるのに時間はかかるが、末長くその場所で採る為には最低条件だと考えている。
この考えに気づいたきっかけは、
教えを守りながら採っているはずなのに年々減っていく現状に疑問を持った事と、
あるネイティブアメリカンの本を読んだ時、
そこに記された「自然からもらう時は、森の園丁のように考え行動すべし。自分が手を入れた結果、より森が繁栄するように採る」という考えに触れた事による。
人が少なく、自然の恵みが莫大にあった時代ははるか過去になり、
春の恵みをただ奪い、自然に何も返さなくなった人間が所狭しと生きる時代には、
それなりの所作と新しい様式が必要なのだ。
気づくには遅かったが。