歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

自分の人生の主人公は自分

今日は「ガイアシンフォニー第九番」をアイヌシアターイコロで鑑賞。第九にはやられたー、喰らった〜、という感じだけど、まあやっぱフルオーケストラって凄いね。昨日の山下洋輔梅津和時・小山彰太のフリージャズも凄かったなぁ。二日続けて真反対の音楽体験で良かったです。
しかし前々から、同シリーズに、というよりは他のいろんなドキュメンタリーやテレビ番組やなんやかんやになんとな〜く感じてたモヤモヤの正体も、今回で割とはっきりしたかなーと思う。
つまり現代文明や社会の問題点を指摘し自省を促すための相対化の視座として、各地のネイティブや伝統的生活や伝承活動、自然と共に生きる、とかそういうのが使われることはよくあるわけですが、
そういう「素材」の使い方する人って、その民族や文化の一面しか見てなくね?と感じることが多々あるわけです。見たいとこしか見ない、というべきか。だって当然、その集団にもいろんな人がいるわけだし。
伝統文化を頑張って守り伝承し続けてる人たちが尊いのには異論はない。オルタナティブな存在は大好きです。だけど「こういう人たちは素晴らしい!だけど現代人は…」っていうアナタ自身はそうじゃないでしょ?って思っちゃうし、そもそもその人たちは、アンタの描く絵を素敵に形作るための素材じゃねーよ、と思うし、そもそもそういう輩って、その周りのいわゆる「フツーの人」には見向きもしないし、どうだっていいんだよね。なぜならネタにならないから。でもそういうフツーの人の中に面白い人がいるんだけどなぁ本当は。まあいかにもそれらしいもんに目が行くのはしゃーないすかね〜。そういう人に騙されてる人はよくいるよね。
なんか「私いろんな場所に面白い素敵な友人たちがいるんです」的コレクションを自慢する人っているけども、それに似てるかも…属性で人を選ぶ人ってくだらないっスよね〜、なんてすんませんね、こちとら十把一絡げのオタクの汚ねぇオッサンでございやすんで、こんな戯言を吐きたい時もあるんでヤンスが、そんなもんでよければ、誰か俺を主人公に映画でも撮ってくれませんかね?