名もなきミズナラのように
息子と二人でキノコを探しに奥山へと入った。
ガタガタの林道を冷や汗をかきながらなんとか越えてようやくたどり着けるそその場所は、地図には名もない小さな沼の周りの森で、それは大きなミズナラが多く残っている。
耳を澄ませても鳥の声や木々の音が聞こえるだけの、とても静かな所だ。
そんな場所で、ひたすらに目はキノコを探し求め、耳は周囲の音を集めて警戒し、鼻から入る匂いに神経を集中し…
そうすると俺の頭でっかちな部分はだんだんと鳴りを潜め、まるで一匹の動物が、目当てのものを探し回るように、行き当たりばったりに森をフラフラと歩き回ることができるのだ。
そしてそれが、現代の人間社会のくだらなさから解放されたような気になれるその時間が、たまらなく愉快なのだ。
だがふと、少なくとも数100年は生きたであろう、おおきなミズナラが寿命を迎え、その身を地面に横たえているのが目に入ると、
かつて近所のフチが森に連れて行ってくれた時の、彼女の所作が思い出されて、俺は同じように思わずその木に触れ、「アンタ、頑張って生きたね。偉いね、死んでもこうやって、森のためになるんだから」と語りかけた。
そして思った。
フチたちのこの感性こそが「人間らしい人間の感覚」ではないだろうか。
損得に基づく合理性や計画性などではなく、これこそが人間と他の動物を分けるものなのではないか。
そんなことをミズナラの大木が土に還ろうとしている森の中で思った。
そしてこうも感じた。
たしかにこのミズナラは偉い。
願わくば、このミズナラのように、別に世の中に広く誰に知られることもなく、
浪費にしか思えない派手な追悼や悲しみや後悔や諂いなどと共になどではなく、
その生でもたらし残したものや、死後にも営々と残り続け、子孫たちの実りある生に繋がりを感じさせられるような、そんな最後を迎えたいものだ。
この名もなき静かな沼のほとりのミズナラのように。