歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

身の回りの素晴らしいものたち

ツイッターを開いたら「妻が「自分の洗い物の並べ方はあまりにも素晴らしいのに誰も分かってくれなくてむなしい」と言っていた。そう言われて見てみると、確かに小さい皿から大きい皿に鮮やかにグラデーションしていく姿、器の重なりの平行性は機能美を併せていて美しい。それに気付いてからは鑑賞するようにしている。」というRTが目に入り、そういう事ってあるよな、身の回りの生活やなんかの中にある密かなアートや表現ってあるよね、と思った。

気づきって意味で言えば、先日ようやく、何年も行っていて「いやはやほんと素敵だなここは…」と感じてもいた弟子屈の辻谷商店の店内空間風景が、どこを切り取ってもバシッと決まってるコンセプトアートだと、遅まきながら気づいたわけです。

でも多分、身体はとっくに先にわかってたんだと思う。ただ頭で理解したり言語化する事が出来なかったんだよね。そういう事はよくある。

ついさっきも、阿寒湖のアイヌコタンが産んだ木彫りの三大巨人である藤戸竹喜さん、瀧口政満さん、床ヌプリさんの作品を今オンネチセで行われている好企画「アイヌアート展」で見てきたんだけど、恥ずかしながら、実はさっきようやく、本当の意味で床ヌプリさんの作品の物凄さに気づけたと思う。藤戸さん瀧口さんはの凄さはある程度わかっていたように思うんだけど。

(まあもっとも、あくまで「今の時点で」の理解や感覚であって、これから更に見かた感じかたも深化し変わると思うけども)

床ヌプリさんの作品は、なんというかまだうまく言葉にはできないけど、目に見えないけど、昔から延々とたしかに存在し、継承したりしている何らかの感覚や存在を表現しているように感じられる。ズシンとしているというか、古代から続く軽々しくない何か。あんまり縄文とかアイヌとか言いたくないけど、でも言葉ではない、重々しいそれそのもの、という感じかな? 上手く言えない!

今日はまさにこれから京都の大山咲みの舞台で、私たちの愛するカピウ&アパッポの二人が、片足は彼女たちの等身大の日常と地続きのまま、もう片足は脈々と色々なものとつながるものや、うまく言葉には出来ないかもしれないけども確かに存在するカムイや芸能の神との接触を果たすでしょう。当たり前に身の回りに存在するものへの感謝の気持ち。その大事さを彼女たちは教えてくれる。