歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

追悼 今吉エカシ

阿寒湖アイヌコタンの長老

秋辺今吉エカシ

先日先祖達の住む場所へと旅立たれた。

私はコタンの末席の新参者ではあるが

自分なりに

思い出と想いを記してみたい。

1998年の夏に北海道を旅していた私は

インドで出会った今の妻のアドレスを頼りに

阿寒湖アイヌコタンへとやって来た。

当時の夏の阿寒湖は

今では比べ物にならないほどに人でごった返し

毎晩お祭りでもやっているような盛況ぶりだった。

各土産物屋もホテルも

かき入れ時に

盛んにシーズンバイトを雇って商売に勤しんでいて

阿寒湖はいろんな人が入り乱れて、

活気に溢れていた。

全国から集まる若いバイトの奴らと仲良くなった私は

そのままズルズルとコタンのライダーハウスに沈没。

北海道の短くて熱い夏を

新しい一期一会の友達達と

日々楽しく過ごしていた。

しかし資金が底をつく。

私は八月の終わりに帰る事にした。

しかしひょんな事から

大根農家の住み込みバイトがある事を紹介される。

帰る前に

お世話になった皆に寿司を奢って帰ろうと思い

私はヒッチハイクで農家のある標茶町へと向かった。

阿寒湖を出て

最初に乗せてくれた車を運転していたのは

豊かな髭を蓄えた威厳のあるアイヌの老人だった。

阿寒湖のコタンで何度か見かけた事があった。

それが私と今吉さんとの初対面だった。

礼を言って乗り込む。

妻や妻の一家以外のコタンの人と

こうして話すのは初めてだった。

緊張して助手席に座っていると

何者かを問われたので

自分は岩手から来た旅人で

というとエカシ

おおアテルイの所か

という。

嬉しくなって

そうなんです

僕のとこの先祖が大和朝廷に負けなければ

北海道はこうなってなかったかと思うと

アイヌの皆さんには申し訳ないです

と答えると

エカシはあっはっはっはと笑った。

それからなんだか打ち解けて

いろいろな話をしているうちに

お前は何処に行きたいのかと聞かれたので

標茶までと答えると

暇だからそこまで連れて行ってやる

と言ってくれた。

おまけに途中の弟子屈で蕎麦をご馳走してくれて

さらに色々な話を教えてくれた。

釧路川の五十石の地名の由来。

若い日に働いた

釧路川を遡る船を馬と一緒に引っ張る辛い仕事の話。

当時のアイヌは仕事を選ぶ余裕などなかった。

標茶に差し掛かり

どこまでも広がるなだらかな畑の景色に

これこそ北海道だなぁ

とばかりに感激している私に

俺の若い頃はここは一面の原始林だった。

切れば金になるし

そのあとは畑になる。

だからあっという間にこうなった。

そうエカシは教えてくれた。

絶句した。

あの時の事は忘れられない。

標茶の農家についた別れの時

エカシ

戻ってきたら俺の店を手伝わないか

と言ってくれたが

帰るつもりだった私は

丁重にお断りをした。

でもとても嬉しかった。

その後妻と結婚し

コタンの住民となった後は

今吉さんと接する機会はあまりなかった。

あちらはコタンのリーダー

こっちは新入りの和人の若造である。

思えばあの時は

偶然の出会いがあればこその会話だったのだろう。

それでも

どこの誰ともしれない私に

働かないかと言ってくれた事を

聞かせてくれた色々な大事な話を

私は忘れない。

今吉さんがアイヌモシリからいなくなり

これからコタンはどうなるのだろうか。

生きているものはいつか死ぬ。

例えば森の中の古くて大きな木のように

存在が大きければ

倒れた時の影響もまた大きい。

その木の下にいた若木の上には

雨も風も雪も容赦なく降りそそぐだろう。

後に続くものの真価が問われる。

空に空いた大きな穴から

遮るものなく照らす太陽の光を浴びて

残されたものは強くならなければなるまい。

大木から受け継いだ養分を身体の一部として。

記憶と伝承を後に伝え

彼等の作り上げたコタンを守るために。

今吉さん

今までご苦労様でした。

良い旅を。