歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

年年歳歳

最近、我らがポロンノの店先に、なんともめんこい花が飾られている。

その花の名は勿忘草(わすれなぐさ)。

星野道夫も愛したというこの花の名の意味は、花言葉からの直訳である。

曰く、「forget-me-not 私を忘れないで」

今年の4月、使用不能になった多目的施設「福祉センター」に変わる代替施設として、

10億円の費用で立てられた「まりむ館」がオープンした。

観光協会や役場支所、広い調理施設や会議室や図書館、

それに大きな体育館などがあり、

現在、様々なサークル活動などの予約がびっしりと入っている。

有効に使われている、幸せな施設といえるだろう。

しかし今回私は、今ではすっかり取り壊され、細かい瓦礫の山になってしまった、

福祉センターについて述べてみたいと思う。

ここ数年、冬の間1月から3月の終わりまで、

私は「氷上フェスティバル」というイベントの、会場作りの仕事に従事している。

会場の設営に使用される資材・道具類は膨大であり、

だから我々作業員は、事あるごとに、

ここ数年来の倉庫である福祉センターに毎日、行ったり来たりしていた。

薄暗いロビーの奥にある体育館は、

かつては色々な行事に使われた往時の面影をわずかに残しながらも、

大量のコンパネやツーバイフォー、ライト類や看板などが雑然と置かれていた。

そしてその場所は、我々作業員にとっても、

また、昔からの阿寒湖住民にとっても、色々な記憶と共にある場所だった。

私が始めて阿寒湖に来てから数年間は、福祉センターは現役の施設であり、

コタンの住民的にも、そして新入りの私にとっても思い出深いのは、

この施設が、毎年10月に行なわれる「まりも祭り」の参加者である、

全道のウタリたちの宿泊施設兼大宴会場だった、ということだろう。

なんといっても、まりも祭りの一番の楽しみは、

日中、観光客のカメラの前で披露される全道各地のアイヌ古式舞踊よりもはるかに、

その夜に行なわれる交流会での、

久しぶりに再開した遠方の知人友人と酒を飲んだ席で、

「~ちゃん、あれ歌って!」といった感じで休みなく披露される、

みんなで楽しむための歌と踊りが満ちる空間を共有する事だと思う。

惜しげもなく歌は歌われ、踊りの輪は、文字通りどんどん広がっていき、

最後にはその場の、(酔って足腰が立たない人以外の)全員が輪になって踊るのだ。

あれはとても楽しい。

しかし老朽化により、数年前より福祉センターは使用できなくなってしまう。

まりも祭りの交流会は、ホテルの中で行なわれるようになった。

以前は夜を徹した宴会は、12時位でお開きとなった。

まあ時間はともかく、雰囲気的に以前のようにはいかないのは事実であり、

今や、あの空気は、記憶の中にあるだけである。

多目的ホールである福祉センターでの食事の準備や、

布団の手配などを共同作業で行なっていた過去に比べれば、

すべてをホテルに任せることによって、負担が減ったこともまた事実だが、

個人的には、残念な気持ちは否定できない。

その後、倉庫に変わった福祉センターは掃除も行なわれなくなり、

急速に荒れ果てていった。

訪れる人もまれで、雨漏りは益々ひどく、

天井の石膏ボードはどんどん崩れていく。

土足で歩く体育館の床板は、どんどん剥げて汚くなる。

かつては住み込みの名物おばちゃんがうるさくも情熱を持って管理していたあの建物は、

ついには、ただの倉庫と成り果てた。

しかしそれでも私は、あの建物を気に入っていたのだった。

横に伸びた、どっしりとしつつもかっこいい建物全体の構え。

モダンなデザインの入り口の上には三角屋根があり、

その正面に、幾何学的でカラフルな色ガラスが使われている。

これまた古きモダンを感じさせるロビーのデザインとカラーリング。

体育館兼大ホールに入れば、その正面壁の一番上に、

鉄の柱が幾何学的に大きく組まれ、その中に明り取りのガラスが入っている。

上下の透明でないガラスにはさまれた、

ひとつ置きに半分ずつずらされた透明ガラスから入る光の奥には、

白樺の真っ白な林があり、ガラス越しに見えるそれはまるで、巨大な写真か、

極めて写実的な日本画の衝立を見るようだ。

また、その明かりによってもたらされる、光と暗い建物の中のコントラスト。

ここが個人的に一番のお気に入りだった。

ちょっとフランク・ロイド・ライトっぽいデザインのこの建物を、

もしも私が大金持ちなら買い取りたい位だ、なんて冗談を仕事仲間に話していた。

ただそれだけのことだったんだけど。

3月末に氷上フェスティバルの仕事も終わり、

4月にはまりむ館がオープンし、観光シーズンが始まり、

5月に、福祉センターの取り壊しが始まった。

末には破壊は完了し、かつてのモダンな建物はコンクリートの山となり、

そして6月になった。

つい先日、近所の著名な彫刻家、床ヌブリエカシが夜にご来店。

エカシはうちの義父の兄でもある。

エカシ根室の友人と連れ立ってきて、やって来た義父も交え、

ビールを飲んで話に花はさき、みるみる夜はふけていく。

友人が帰った後、東京から帰ったばかりの義父が、エカシAIR DOの機内誌を渡し、

そして曰く、「兄貴、田上の特集載ってるぞ」。

その後の会話から推察するに、「田上」という人は建築家で、

エカシはかつて、田上氏のつくったホテルの中に置く彫刻を頼まれた事があるらしい。

そこから二人の話は、阿寒湖畔の今はなき建物である、

「旧まりも幼稚園の」話に移っていった。

どうも、旧まりも幼稚園はその田上氏の手によるものらしい、

ということが二人の話からわかった。

私が阿寒湖に来てから、妻を始め、

色々な人から、その「旧まりも幼稚園」について聞いたことがある。

元々阿寒湖小学校として建てられたその建物は、

マリモを模した、ドーム状の、とてもかわいくてユニークな建物だったらしく、

老朽化によって立替が検討された時、住民がそのいい感じのデザインを惜しみ、

存続の為の動きがあったらしい。

当時、幼稚園の一教諭であり、現まりも幼稚園の園長先生を勤める小野先生は、

取り壊しと新規建設が決まった時、個人的に画家に依頼し、

旧校舎の絵を描いてもらうほど愛着があったという。

義父はビールを飲みながら、当時の残念な気持ちをいう。

となりでエカシは黙ってうなずいている。

なんでも、旧まりも幼稚園は、

アイヌコタンの大恩人であり、阿寒湖の大功労者である、

故・前田光子さんの意思により、田上氏に依頼し、建てられたんだそうな。

いわば阿寒湖の歴史的建造物な訳で、

義父はしきりに、あれはもったいなかった、と繰り返している。

わたしはもちろん、旧まりも幼稚園を見た事はないが、

しかし二人や、当時の人たちの気持ちがわかるような気がした。

そんな話を聞いているうちに、私は福祉センターのことを二人に聞いてほしくなった。

いかにあれがかっこいい、モダンな建物だったかを。

金があったら欲しかった、なんていう冗談も話した。

最後に、

「ちょっとフランク・ロイド・ライトっぽいデザインだな~って思ってたんすよね」

なんてことをいった時、義父は突然興奮して、

「お前、あれはたしか田上の設計だぞ」

え?

するとエカシもすかさず、

「お前、田上はな、ライトの弟子なんだぞ」

え~!!!!!!!!!!!!!!!!!!

田上義也

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E4%B9%9F

フランク・ロイド・ライト

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88

あわてて機内誌を引ったくり、ページをめくって田上氏のプロフィールを見る。

ちょ、ちょっと待って、こんなにすごい人なの?

「エゾ・ライト」と呼ばれている? まじっすか?

そして彼が設計した札幌の建物の写真を見て二度ビックリ。

ふ、福祉センターっぽいじゃんこれ!

その間も二人は田上について私に色々と教え続けてくれていたのだが、

私の混乱した頭の中では、ただ一つの言葉だけがグルグルとめぐっていたのだった。

すなわち、

もったいねー!!!!!!!!!!!!!!!

しかし。現実は、といえば。

次の日の朝、隣のお店のスーパー木彫り職人、平間さんにこの話をしたら、

曰く、まりも幼稚園は確かに残そうって話はあったけど、

町は老朽化した建物の維持費の負担は足がでちゃうから無理だっていうし、

それじゃあって寄付金を募るかって話になったんだけど、

結局ぜんぜんお金集まらなかったんだよね、とのこと。

私だって、何か保存の為の声を積極的にあげたわけでもなし、

毎日通った場所だから、かえって写真の一枚も残さない始末。

福祉センターのことを当時も、そして今も、

みなに話して返ってくる反応は、「そんなにいい建物か?」というもの。

いずれにしても、消える運命。

私に出来る事は、せめて忘れない事だけだ。

そしてそれすらも、いつか消えていくのだろうが。

ライトの弟子の手による、もしかすると観光名所になり、

後世の住人たちの財産になったかも知れない建物二つが、

永久に阿寒湖畔から失われてしまったことなど、

気にするものは誰もいなくなるだろう。

なぜなら、我々は皆、百年の計によって生きるわけではなく、

その時々の季節に合わせ、暮らしているだけなのだから。

夏がくれば半袖になり、冬になれば厚着をする。

古いシャツは取り替える。

それこそが健全な考え方なのかもしれない。

年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」

繰り返すようで変化し続けるのが、この世の中の理なのだから。