歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

「平家物語」見たい

祇園精舎の鐘の音には、「諸行無常」、つまりこの世のすべては絶えず変化していくものだという響きが含まれている。沙羅双樹の花の色は、どんなに勢い盛んな者も必ず衰えるという道理を示している。世に栄えて得意になっている者がいても、その栄華は長く続くものではなく、まるで覚めやすい春の夜の夢のようだ。勢いが盛んな者も結局は滅亡してしまう。それはあたかも風の前の塵と同じである。」

こんな人の世の真理を、諦念と達観をベースに簡潔かつ音楽的詩的に表現しきっちゃってる震える冒頭から始まる日本文学の傑作、平家物語。まあアイヌの誇る天才知里幸恵はもっと美しく簡潔に表現してるけどね。

この平家物語をベースにした新作アニメがネトフリなんかで見れるけど、ヤバイっスよ。なにせ、終わりがわかってる。栄華の絶頂を極めた平氏が、いかに滅びていくかという物語なわけです。考えてみりゃ珍しい形式の物語だよね。並行して源氏が勃興するわけだけど、奇しくもNHK大河で放送されている鎌倉殿で描かれるように、源氏は北条氏に簒奪されるわけです。ゆく川の流れは絶えずして、しかし元の流れにあらず。人の世の勃興はくだらなくもひたすら繰り返されるように見える。

しかし「歴史」や「物語」といわれるストーリーの中には、目立つ、目立たないを問わず、たくさんの人々が関わり、それぞれの想いの中で生きて行動してるわけです。逆にいえばそれらたくさんの人々の行動の総体やそれを取り巻く自然全てが「歴史」なわけだけど、俺らは目立つ人を中心とする物語としてそれを捉え、自然環境は単なる背景としてしか考えないから、そのことを忘れがちになっちゃうね。

物語である以上、メインとなる何人かの人間を中心とするストーリー展開になるのは、まあ致し方ない部分はあるけど、もう俺、世にはびこる人間中心主義的な物語には飽き飽きしてる。ゆえにたとえば「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す」なんて表現、あるいは「国破れて山河あり、城春にして草木深し」なんて表現にグッときちゃうわけです。自然は未知と理解不能性や予測不能性に満ちていて、そこがたいへん素晴らしいところなんだけど、人が世の愚かなわちゃわちゃの繰り返しに疲れ切ると、諸行無常で理解不能な自然の超然とした営みに、なぜかどっしりとした安定感を感じちゃうんすかね? 杜甫が泣いちゃったように。

しかし今このタイミングで、なぜアニメ「平家物語」をつくったのか。そこには大変興味があるね。同じくネトフリで話題の「ドント・ルック・アップ」や「地球外少年少女」なんかも同様に、今作られるべき、極めて現代的な意図があるような気がしてます。