ココペリのお別れパーティーは、暖かい葬式のようだった。
乾杯の挨拶があり、各自が持ち寄った料理をつまみ、
ココペリを軸につながる人たちが、
そこかしこで談笑していた。
まるで、たまにあるココペリの飲み会のように。
ピースでアットホームで、なんとも優しい空間。
まるで阿部さんやゆりちゃんの人柄のままに。
でも私はその日、その空気が嫌だった。
どこに身をおいて、何をしたらいいのかもわからなかった。
そこでキッチンに入り、手伝いをしていたのだが、
妻が気を使い、ビールを片手に戻った。
それでもやっぱり気が重い。
こんな雰囲気なのは、みんな大人で、優しすぎるからだ。
私は、ココペリとこんな別れ方は嫌だった。
どんちゃん騒ぎか、つばを飛ばして本音をぶつけ合うとか、
要するに滅茶苦茶になりたかったのだ。
それなのにココペリに集まった人は皆、
大人でバランスがとれた人達だから、
愛と遠慮深い優しさと気遣いとが、
ココペリに満ちていたのだった。
阿部さんとゆりちゃんに対する敬意と親愛の情と共に。
やがて、参加者が一人ずつ話をすることになった。
自然と、ココペリと自分との関わりの話を皆がした。
それぞれにとって、ココペリはとても素敵な場所だった。
阿部さんとゆりちゃんと、子供達の作り出した影響は、
それぞれの心に種を蒔き、それぞれの心の中で綺麗な花を咲かせた。
まるで本物のココペリのように。
私は、自分のココペリとの関わりを話すことができなかった。
いつもはおしゃべりな私だが、
その時は自分語りが嫌だったのだ。
ボソボソと二言三言話し、外にタバコを吸いに行った。
幼稚な私は、その場に居たくなかったのだ。
皆が最後の時間を皆で作り上げている時に。
今思えば、当たり前にあったものがなくなってしまうというのに、
その場においてその事実を受け止めきれていなかった私は、
その心のギャップに苦しんでいたのだった。
その後も談笑は続き、三々五々参加者が帰っていったが、
私は誰かと積極的に話をするでもなく、
いつの間にかストーブの横で居眠りをしている始末。
気がつけば人は殆ど残っておらず、
登山家のAさん夫妻と、あと数人がいるだけだった。
阿部さんとAさんは、神様の有無について楽しく議論している。
今まで私も阿部さんと、そんな話を何度したことか!
最後までここはこうなのだ。
暖かくて優しくて、真に平和で民主的なのだ。
最後なのに、暗くて湿っぽくなどならずに、
まるでいつものココペリのように、観念的な会話を皆で楽しんでいるのだ!
私は何だか悲しくなって、勝手に腹を立て、
「そんな事は今までに何度もした話だ」と言い放った。
今ではとても反省している。
私はその夜、一人ココペリに泊まることになり、
遅くまでゆりちゃんと話をした。
こんなに長くゆりちゃんと話をしたのははじめてだった。
そして多分、最後になるのだろう。
あの日あった人達の何人かとは、もう二度と会うことはないだろう。
私たちを結びつけていた中心がなくなってしまうのだから。
私たちの人生にココペリが種を蒔き、
色々なところで芽を出したそれが、
どういう風に成長するのか。
そして十数年、阿寒町徹別から豊穣の笛を吹き続けたココペリが旅立ち、
今度は長野県で愛ある日々を人々にもたらすのか。
そういうことを考えると、確かに一刻、心が暖かくなる。
しかしココペリのことは、悲しい。
でも、阿部さん、ゆりちゃん、はるちゃん、つっくん、元気でね。