歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

不自然とナチュラルの狭間で

氷上フェスティバルの仕事が終わり、

店に復帰して幾日か経ったが、

良くいえば平和な日々であり、

正確にいえばヒマでしょうがない。

なにせ通りを人っ子一人歩いていない、

なんてのがデフォである訳で、

たまに誰かが歩いて居るかと思えば、

それは近所のおとっつぁん&おっかさんな訳で、

まあ時期的には、ど山奥の観光地としては仕方がないのだが、

それでもなんとかならぬものかと思うのがこれ人情のなせる技。

例えば阿寒湖まで、

札幌からリニアモーターカーでハイスピードで来れるのなら、

もう少しこんな時期でも、人通りがあるのではないか。

いや、札幌なら、少し遠出をすれば自然がなくもない訳で、

例えばかのコンピューターシティーアキハバラから直通ならば、

そのギャップ故にバンバンでウハウハなのではないか。

まさに完璧な計算だ。

しかし開店しているというのに、

そんな妄想に耽っているだけでは一銭にもならない。

一銭にもならないが、ただ待っているだけというのは、

ある意味一人SMのセルフ拷問であるからして、

そういう場合最近では、まずコーヒーをおとし、

ここはインターネッツを活用し、PR活動を行うべしとの結論に至ることが多い。

リアルワールドで補えないものは、

エレクトロ・ワールドで補完すべし、である。

お、これ名言かも。

まあ正確に表現すれば、

暇だからtwitterでもやるかって事なんですが…。

それでも、webの虚空に向かって叫ぶのと、

twitterにおけるつぶやきの違いが一応はある。

すなわちフォロワーの存在がそれで、

実際に見てくれているかどうかはタイミングが勿論あるけども、

対象が実際に存在するというのは、訴える上ではやっぱり何かが違う。

ネットによるコミュニケーションはえてして、

リアリティがないような気がするけども、

「僕は確かにいる」というのを、

たとえ間接的にでも、twitterでは自分が知ることができるのだ。

そこであとはどれだけのアピール力を持ち得るのか、

という問題が当然出てくるわけだが、

そこはなんでもそうかも知れないが、ちょっと嫌らしい言い方でいえば、

どれだけの甘いファンサーヴィスができるか、ということなのではないか。

(独り言・苦しくなってきたな…)

まあある意味、私のつぶやきやブログを見てくれたり、

実際にお店に来てくれたりという事は、

何らかの楽しみを期待している男の子な訳であるから、

こちらとしても計算する女の子として、

きっちりと心を込めた甘く、時にビターなサーヴィスを心がけなければなるまい、と思う。

それと同様に大事なのは、『継続は力なり』ということだ。

PRは質も勿論大事だが、「繰り返す」ことが大事なのである。

「繰り返す」ですよ、「繰り返す」。

しかしつまらんものをただ繰り返してもつまらないから、

そこに何か違う要素を違うリズムをポリリズム変拍子)で混ぜると、さらに効果的なのではないか。

そうする事によって、僕の思いが、君に伝わる可能性も高まるかも。

(独り言・強引かつ意味不明ですな…)

まあ、twitterでは、店のことなんざ、なんらつぶやいちゃあいないっすけどね。へへへ。

そんなアホな事をしつつも、そんなこんなで時は過ぎ、

常連さんが三々五々ご来店しては帰っていくと、

あっという間に夕方の、また誰もいないポロンノの午後。

そんな時間は、待ちに待った愛犬ラタとのお散歩タイム。

氷結して見渡す限りフラットな湖の上へと、

一人と一匹で愛の航海へ。

小島という阿寒湖にある島の周囲を一周して帰ってくるのが日課だが、

これが結構な距離なのだった。

毎日行く前は、簡単な事って勘違いをしているのだが、

湖の氷の上である程度歩くと、そのあまりの引き返せないほどの距離に、

判断を誤ったと、後ろを振り返ることがしばしば。

まあそれでも、行ってしまえば、

見あげた空は高いし、これくらいの感じで、たぶん丁度いいと毎度思う。

完璧な空、天才的な雲。

雄々しく聳える雄阿寒、白く美しい雌阿寒。

グレートで複雑な湖畔の生態系と、それらが生み出す素晴らしい水と空気。

ひっくるめて一言で、神々と言ってもいい。

この場所に来る度に、それらの神々の愛の世界に包まれ、それらの一部であることを感じる。

彼等からちょっぴり秘密をもらい、二人だけの特等席を占有する特権を分かち合うのだ。

ずるいでしょ?

(しかしこのような圧倒的な自然の素晴らしさを感じるたびに、

それをどうしたら表現できるのか、悩みを覚えないことはない。

言わば、最高を求めて終りのない旅を続けているようなものだ。

しかし、文章で表現を志すものの端くれのドリームファイターとして、

遥かこの先を目指さなければなるまい)

散歩から帰り、夕食を済ませ、店に戻って常連さんの晩酌の相手をし、

それほど忙しくないので、最近はすぐに家に帰れることが多い。

最近は、家に帰ってみるDOMMUNEのライブを楽しみにしている。

http://www.dommune.com/

昨年末の当ブログでもご報告したが、

最近、USTREAM、ライブハウスなどからの配信が盛んで、

その中でもこのDOMMUNEでは、毎晩国内の強豪DJたちのプレイを、

なななんと無料でリアルタイム配信しているのであった。

そしてそれを、私を含む日本の及び世界中のあちこちに住んでいる、

暇なんだけどクラブに行けない人が、

BEERや酎ハイ片手に、毎夜パソコンのモニターを眺めているのです。

その数、多い時で5000人超!

今日は何だかな~、面白いこともないし、

一人で踊りたいな~、なんて思っても、

私のようなど山奥のど田舎に暮らしている人間は、

まあせいぜい、iPhoneで音楽きいてやるしかなかった訳ですが、

USTREAMの出現によって、リアルタイムで、

twitterで会話しながら、同時にライブを楽しめるようになった訳です。

まさにグローバル・ワンルーム・ディスコ

すごい世の中になったものです。

ど田舎もんでも、東京の最先端クラブwのイベントに、

リアルタイムで参加できるわけですからねえ。

と、まあ、

長々と書いてきて、何が言いたかったかといえば、

21世紀のニッポンの暮らしにおいては、

どれほど山奥に暮らそうと、

どれほど強力な自然の中でナチュラルライフを指向しようと、

人為的で不自然な、生活の隅々にまで浸透している、

超強力技術文明の恩恵を受けずに暮らすのは不可能だし、

実は人間社会とは、技術レベルの違いこそあれ、

その最初からそうだったんだろうなあ、ということが言いたかったような。

それが人間の本質。

can't stop 不自然こそが、ナチュラルな人間という存在の本質なのである。

そう書くと、なにやら悲観的でああ無情な感じがあるかもしれないが、

自然の素晴らしさに感動し、それらをより理解しようとし、

そうして生まれた人間の精神活動から様々な素晴らしいものが生まれたのもまた事実。

人間は考える葦である。その考える存在が生み出した最高のものの一つが、

明日この世に送り出されることを、喜ぼうではありませんか。

すなわち、これが。 ↓