ある日、東京に怪獣が出現し、たくさんの人が死んだ。
怪獣は自衛隊によって殺されたが、
怪獣は環境破壊や海の汚染による突然変異によって産まれたらしく、
怪獣の死骸や体液は環境や人体にとって有害で、政府はその処分に苦慮した。
死体や汚染土壌処理は遅々としてなかなか進まず、
仕方がないので政府は、早期の復興を断念し、
周辺地域は封鎖され、住民は立ち退きを迫られた。
それから何年も過ぎると、それはすっかり日常の一部になって、
人々はそのことを忘れて暮らし、
何もなければ、思い出すことはなかった。
若い男と女が居酒屋にやってくる。
「とりあえずビール?」
「そうね。すみませーん、とりあえず生二つお願いしまーす」
「はーい。……あ、お客さん?すみませんが、手袋は外さないようにお願いします」
そうだった、と男は思った。以前のくせで、ついおしぼりを使おうと、手袋を外してしまう。
「あーはいはい、ごめんなさいね」
慌てて手袋をつける。すかさず店員がやってきて、男が素手で触ったテーブルなどを「失礼します」と消毒した布巾で拭いて去っていった。
女が小声で、
「……ねぇ、けっこう神経質な店なのね、ここ」
と店員をチラリと見ながら囁く。
男はちょっと口を曲げながらも、同じく小声で、
「……まぁ、仕方ないだろ?そういうご時世だもんな。なんかあったら、営業できなくなるんだろうし」
と訳知り顔でいう。
納得できないように女は小声で続ける。
「……でもだってさぁ、政府は「一日三匹、一食一匹までの魚なら、健康に問題はない」っていってるじゃん。それに、もし感染しても…」
と、ここで生ジョッキが二つやってきたので女は口をつぐんだ。
「まあまあ、とりあえず乾杯」
「乾杯!………ぷはー!美味しいね!」
「仕事の後のビールは最高だな……まあさ、とにかく」
と男はお通しに箸を伸ばしながら、
「国や学者がいってる通りにしとけば無難さ。とりあえずなんかあっても、それなら文句をいわれる筋合いはない。安心して飲めるよ…あ、お通し美味い」
「でもさでもさ、おかしくない?」
「なにが…あ、ビール飲む?」
「飲む飲む。すみませ〜ん、生二つくださ〜い!………感染しても、基準値以内なら、手のひらにそんなに毒って出ないんでしょ?テレビでそういってたよ〜?」
酒に弱い男は、もう顔を赤らめながら、
「んー、何だか俺にはよくわからんけどさぁ…まあなるべく不必要に手袋は外さないでくださいってことだし……それにさぁ、なんかあったら、まずいじゃん」
「なにが!」
女の目はすわってきていた。
「おいおい、もう酔っ払ってるの?」
「それはあなたでしょ!私は全然大丈夫!それで、なにがまずいってのよ!」
「…………ぷはぁ、いやぁ、ほら、よくいうじゃん……毒に感染しても、ほとんどの人に健康の害はないけど、たまに重症化するし……えーとほら、手から出る毒が、お年寄りや病気のある人に感染したらまずいってさぁ」
それを聞いた女は少し声を落とし、
「そりゃ、まぁ、そういう話も聞いたことがあるけど…でもさぁ、みんながみんな、毎日魚を食べるわけじゃないし、感染る人っていっても、10000人とか1000人に一人とかでしょ?実際周りで見たことないし…」
まあなぁ、とすっかり赤ら顔の男はため息をつきながら、
「もうやめない?こんな話。せっかく飲みにきたんだし、なんか美味そうなツマミでも食べようよ」
「そうね」と女はメニューを手に取ってパラパラとめくる。
「あ、この近海物のお刺身のお造り、美味し…」
「いや、それはちょっと」
と男が食い気味に止める。
「え、なんで?まさか気にしてる?」
と女がニヤニヤとした笑みを浮かべるが、男は少し酔いが覚めたような口調で、
「……いや、問題ないとは思うけど、わざわざそれを食べる必要、ないよね?」
女の茶化すような笑顔が、ゆっくりと真顔になる。
遅々として進まず、経費ばかりが膨らみ続ける怪獣の死体処理に苦慮した政府は、
「充分に薄めた上で、怪獣の死体や毒成分を海に投棄する」という方針を発表する。
たちまち反対意見が出るが、
繰り返される「食べて応援!」などの政府の広報キャンペーンや、
見返りの各方面への交付金により、やがて沈静化。
やがてこれも、多くの人に忘れ去られるかと思われた。
数年後、太平洋沿岸部で未知の病気が広がり始める。
「投棄された怪獣の体細胞や血中成分が病原菌化し、感染した魚を食べた感染者の手のひらの汗などから、他人へと感染する」
そんな研究結果が発表されると、忘れ去られた怪獣への関心が一時的に高まり、政府への批判の声が高まった。
論文発表後、ほどなく東京都で、「初めて公式に確認された感染者」が3名発表されると、
この未知の病気に対する不安は、メディアの格好のネタになった。
東京都の感染者数が10人を越えた時、都は非常事態宣言を発令、
ベイエリアに残る怪獣の死骸を覆う建物をライトアップし、
世論の不安に押される形で、
次の日から2週間の都市封鎖を敢行した。
メディアは連日「不要不急の外出を避け、感染防止対策のために手袋をつけるように」と繰り返した。
政府は総理の肝入りで、全国民に古い軍手を送付、
その経費に数千億円を費やした。
しばらくすると、経済への悪影響が表面化してきた。
すると今度は政府やメディアによって、
「手袋をすれば普段通りに生活して大丈夫」というキャンペーンが始まった。
一部からは、
「手袋をしても、満員電車などでの他者への感染の可能性」
「コンビニやスーパーなど、不特定多数の人が触ったものを、消毒することへの難しさ」
などさまざまな指摘もあるにはあったが、政府の、
「直ちに害があるとは認められない」
という答弁の繰り返しと、
「たまに周りで感染者が出て、運が悪ければ死ぬかもしれない、という程度」という認識が空気のように広まると、
やはり人々はこの病気にも慣れてしまった。
今まで通りの日常生活を送りたい、という欲求は、何事にも変え難い。
実際に自分が当事者にならなければ、実感などは持てないものだ。
「ありがとうございましたー」
男と女は居酒屋から通りへと出た。
二人でゆっくり連れ立って歩きながら、女がぽつりと、
「さっきは変なこといっちゃって、ゴメン」
やや千鳥足の男が
「なにが〜?」と答えると、
「ほら、魚のこと。わたし、けっこうお魚好きだから、ちょっと、ね」
「あ〜、こっちもゴメンね〜。俺もそんなつもりじゃなかったっていうか」
「まあ結局、お刺身食べちゃったし」
「そうだねー。俺は食わなかったけど…」
「好き嫌いはしょうがないよ……ねぇ、このあと、どうする?」
と女が頬を少し赤らめて男の顔を覗き込む。すると男は歩みを止め、女の目を見て、何かを思い出したように目を逸らしながら、
「……ああ、今日はゴメン、実はちょっと仕事が残ってて……帰るわ、また…」
と立ち去りかけた。
「えっ?待って」
女は思わず腕を掴む。すると男は反射的にその手を振り払う。
「なに、どうしたの急に?仕事?本当に?」
「本当だよ、あのほら…」
「魚を食べたから?」
「いやちが…」
「魚のせいなんでしょ?……嘘でしょ?信じられない…」
「………だから違うって」
「私から感染るかもって、そういう意味?」
弱りきったような男は、
「うーん………まあでも………無いとは、いえない、よね?」
愕然とした女は頭を振り、ため息をつく。
「信じられない…何いってるかわかってる?」
男もため息をついて、眉間にちょっと皺がよる。
「君こそ、ちゃんと考えるべきだよ。リスクはゼロじゃないんだから。何かあったら、人に迷惑をかけることになるんだよ…?」
少し呆れたような口調が、酔った女の逆鱗に触れる。
「そんなこというなら!何で飲みになんか出かけられるの?」
「いやそんなことを言い始めたら…」
「ちゃんと気をつけるってんなら仕事だって無理!買い物だって無理!いちいち何かを触るたびに、手袋を消毒したり交換したりしてる?してないでしょ!」
「そんな極端な…」
「でもそういうことじゃん!本当は!気をつけるってんならそこまでやらないと意味ないでしょ!なによ!魚を食べる人を悪者扱いして、自分は気をつけてます、感染するのはどこかの考えが足りない人って、バッカじゃないの?!」
「ちょっと君落ち着いて…」
「うるさい!」
女は怒りのままに手袋を外して丸め、思いきり投げて男にぶつけると、「ふん!」と言い捨てずんずんと去っていった。
虎の尾を踏んでしまって弱りきった男は、しばらく女の後ろ姿を眺めていたが、やがて見えなくなると、ため息をついて、落ちた女の手袋を拾いながら一人呟いた。
「……そんなこといったってさぁ…そこまでいったら、生活なんて、できねーじゃんかよ……どっかで線引くしかねーじゃん……国があーいってんだから、それ守ってりゃいーじゃん……でもわざわざ魚なんて食う必要ねーだろ……なんでわかんねーのかな……気持ちわりーじゃん、魚食うやつとかさぁ………理屈じゃねーっつーんだよ、そんなの………」
そういうと男は、手袋で額の汗を拭き、「飲み直そ…」と呟くと、夜の街へと消えていった。