12月、といえば、恒例大麻雀大会。
今年は過去最高の参加人数で、4卓稼動の鉄火場。まさに、まさに麻雀地獄。
予習として、父の代より我が家に伝わる阿佐田哲也の大傑作『麻雀放浪記』全4巻読破で完璧。
しかし結果は惨敗。
常の自分のプレースタイルである感覚麻雀から、論理麻雀に中途半端に切り替えたのが敗因か。
だが、私はかえって、敗北の屈辱よりも、負け麻雀のマゾ的楽しみにちょっと開眼。
いずれにせよ、麻雀はいい。
まずこれは頭の体操であり、怠惰で衰えがちな冬の脳を活性化する働きがある。
しかも虚虚実実の対人ゲームであるから、接客スキル等の向上に、学ぶべき点が多い。
さらに麻雀とは運の要素が大きいので、運命に対して謙虚に対峙する姿勢が身につく。
そして勝って驕らず、敗者には優しい姿勢が求められる、紳士のゲームである。
いわばこれは、遊びの名を借りた職業訓練校であり、
ゆえにそれ以来、私の頭の中は麻雀でいっぱいになり、
ヒマさえあれば、麻雀という名の自己鍛錬を、自らに課している。
12月といえば、海釣りのシーズンでもある。
最後の鮭、チカ、コマイ、アブラコ、ソイ、などなど、枚挙に暇が無い。
魚たちは、心正しい人間の元にカムイから使わされたお土産であり、
釣りという行為は、良い人生を生きているか否かを自らに問う、いわば修行である。
せっかくカムイが使わされた魚たちを、迎えにあがらないというのでは、失礼かつ怠惰である。
そしてそれらの恵みを美味しくいただくのは神聖なる義務といえる。
いわばこれらの総称である『海釣り』とは、母なる海における、アイヌプリ・センター試験である。
ゆえに、私はヒマさえあれば、いそいそと磯に出かけるのだった。
12月といえば、観光業が中休みを迎える、静かな季節である。
山には紅葉も雪もなく、枯れた雰囲気の森に囲まれたアイヌコタンは、
行きかう人の姿も稀で、日中は営業する店もめっきりと少ない。
ポロンノは毎日ニコニコ営業中ではあるが、
常連さんが帰れば、ナイアガラ・トライアングルのなまらかっこいい『ナイアガラ音頭』やら、
ビーチボーイズの超傑作『トゥデイ』の超名曲『知ってるあの娘』、
ジョアン・ジルベルトの名作『彼女はカリオカ』などが、
無人の店内から無人の店外へと流れ出し、高い高い青空に空しく拡散する。
唯1人ぽつんと取り残された私は、だがしかし、無為に過ごす事など許されない。
そんな時こそ、読書をしなければならぬ。
一見、客観的に見れば、ヒマをいいことに好きな本を読む怠け者のていだが、さにあらず。
一体、人とは、何のためにこの奇跡的な人生を生きているのだろうか。
ある人曰く、それは、このガイアの素晴らしさ、この宇宙の神秘を、感じ、そして学ぶためである。
そして孔子は言っている。
『学びて思わざれば即ちくらし、思いて学ばざれば即ち殆し』と。
感じるだけでも、学ぶだけでも、いずれも不十分で、両方必要なのである。
ゆえに、私はこの素晴らしい阿寒の自然の中で、本を読み、考えなければならぬ。
これ全て、カムイの御技であるこの世界を、より深く理解するためである。
また、こうした営々たる努力は、より良いお客様へのおもてなしへとつながる訳で、
そういった意味では読書もある意味仕事であり、また人としての義務でもある。
今日は川上勇治の『サルウンクル物語』と、鬼平犯科帳を読んだ。
どちらもとても面白かった。人情話はいいね。
そんな訳で、私はヒマさえあれば読書にいそしむ。
そしてあわよくば、海釣りに出かけ、メンツが揃えば夜は麻雀をする。
今、私の頭の中は、これらの事でいっぱいだ。まことに年末は忙しい。
しかし、ここのところ妻の視線が険しいのは、何故なのか。世界は神秘に満ちている。