歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

スーダラ無限地獄

ある朝呉郡三郎がなんともいえぬ不快な悪夢から目覚めてみると、自身が一匹の虫、種類でいうならば玉虫に変じているのに気がついた。

これはまだきっと夢が続いているに違いない、と三郎は思った。なぜなら自分は確かに人間で、昨夜の事もよく憶えている。閉店までパチンコを打って帰宅し、負けた腹いせに焼酎をあおり泥酔し、風呂に入って溺れそうになったのだった。思い出すのも嫌な情けない記憶である。

もうしばらくずっと負けが続いている。その度にもう二度と行くまい、パチンコなどからは足を洗おうと考えているのに、少し経てばまた勝った時の快感が思い出され、今度こそは勝利を味わえるのではないか、とまた行っては負ける。不安と失望と勝利の極端な精神の波がもたらす脳内物質の過剰分泌によって生み出されたパブロフの犬。完全な中毒状態にある自分を認識してはいるが、しかしそこから抜け出すことができない。昨夜も覚えた強烈な失望、胸が灼けるような後悔、そして愚かな自分への自嘲を三郎はよく憶えていた。

この夢もきっとパチンコに負けた無念と後悔とストレスによってうなされ、悪夢を見ているに違いない。当然三郎はそう考えたが、しかし自身が玉虫であるという実感はどうにも強固であった。こうして自身の現状に戸惑いつつ、昨夜の記憶に煩悶している間にも、触覚は周囲の匂いを感知し、身体は玉虫としての本能によって突き動かされ、三郎は留まっている木の幹の上を六本の脚でシャカシャカと登り始めた。

木の上部に登れば登るほど、三郎を突き動かすたまらない香りはますます強くなってくる。三郎はたまらず羽根を開き、空中に飛び上がってその狂わしい衝動の源を目指し、程なくそれを見つけた。ケヤキの枝の先端が折れ、香しくも強烈な薫りがそこから周囲に流れ出している。自分の中の衝動に突き動かされるまま、昨夜の悔恨も今朝の当惑もすっかり忘れたように三郎はまっすぐその場を目指した。

近づいてみれば、同じような興奮に包まれた別の玉虫たちが切り取られた枝の先に群がっている。よく見れば枝は自然に折れたものではなく、どうやらなにかノコギリのようなもので意図的に切り取られたようである。まだ残る人間としての三郎の心の一部がその新しく綺麗な切り口に違和感を感じたが、その木口から漂う快楽物質に我先にと群がり熱狂する玉虫たちの群れが、陽光に照らされて七色に光り輝き飛び回るその光景に玉虫の三郎はうっとりと幻惑された。玉虫としての身体は本能と快楽のスイッチの命ずるままにその中へと飛び込むことを欲した。心の中の警告を無視し、もうすっかり一匹の玉虫と化した三郎は、興奮状態のレイブへと飛び込み、押し合いへし合いしながら我を忘れて快楽の源を目指した。心の中のどこかでパチンコ屋の新装開店に駆けつける時の興奮を思い出しながら。

完全な玉虫と化してどれほどの間そこで快楽を貪ったのかは憶えてていない。だが突然、枝に強い衝撃を感じ、多くの仲間と共に三郎は空中に投げ出された。為す術もなく地面に落下し仰向けにひっくり返って六本の脚をバタバタさせていた三郎を、巨大な手がつまんで拾いあげ、籠の中へと放り込んだ。次から次へと放り込まれて恐慌状態の多くの仲間たちと籠の中でもがいていると、外から人の声がした。

「じいちゃん、いっぱいとれたね」

「ああ。この時期はああして枝を切ってやったら、ああやって木を蹴ってやればいくらでも玉虫が落ちてきてなんぼでもとれるんだ。いくらでも集まってくるからな」

「バカだね、虫って」

「バカっちゅうかなんだろうな。ああやって誘われたら、きっといいことあると思って集まらずにはいられなくなるんだべな。まあ虫だからな。まあいい稼ぎだ」

その声を聞きながら、夏の暑い籠の中でぎゅうぎゅうずめに押し込められ、死への恐怖に怯えてもがく玉虫の中で、三郎の人間だった部分は、昨夜と同じような失望と後悔を覚え、そして自嘲しながら呟いていた。どうやらまた負けちまったようだ。またやつらの食い物にされちまった。自分だけは勝てるとどこかでまた俺は思っていたんだ。なんて馬鹿なんだろう。やられるかもしれないってわかっていたのに、また俺はそうせずにはいられなかったんだ…

そうして他の仲間たちと一緒に三郎は死に、その生は美しい厨子を飾る一部となった。三郎のどうにもならない衝動は玉虫とりの老人の収入となり、美しく貴重な厨子は高い値で売れたのであった。

玉虫が死の恐怖と後悔の夢から目覚めてみると、目の前に御釈迦様が立っている。すると自分は死んだのか。ここは天国なのか。すると心の中で声がした。

お前は昔人間で、自分の欲望の赴くままに周りの人間や生き物たちを利用し、しかし決して満足することがなかった。そんなお前のために多くのものが苦しみ、その生が歪められた。その罪によりお前は死んだ時に地獄へと送られた。自らの行いを反省し快楽の連鎖を断ち切り、わかっていてもやめられない自分から脱皮し、身を慎ましく奉仕の心を持って生きない限り、お前は未来永劫このスーダラ無限地獄から抜け出せず、他者に利用され食い物にされて恐怖と後悔の中で死に続けるのだ…

イスパニアの貿易船であるグレゴール船長は新大陸へと向かう船室の中で、一匹の虫である自分が神に何かを言い含められている悪夢から目を覚ます。きっと昨夜の酒のせいだろう。さあ、もう少しで新大陸だ。インディアン共を騙して脅して奴らの黄金を奪い取り、またしこたま儲けてやろう。今回も船員共が何人か死ぬかもしれんが知ったことか。奴らも好きで来てるんだ。略奪貿易の旨味を一度を味わえばまっとうな人生なんぞ馬鹿らしい。グレゴール船長は一人興奮に震え、悪夢のことをすっかり頭から追い出した。