歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

海別の若い羆が自ら語った話

いつの頃からか私は知床の海別岳の森の中で

母と兄弟と暮らしていた

春に母と兄弟と暖かい家の中から出てくると

それからは天が私たちのために用意してくれた

行者ニンニクや蕗の若葉

ドングリや山葡萄

無数にいる鹿や魚

キノコや虫

それに甘い蜂の巣やコクワの実

そういった美味しいものを

母と兄弟と食べて暮らしていた

それはこれ以上何を欲しいとも思わず

これ以上何を食べたいとも思わない

豊かで幸せな日々だった

そんなある日のこと

母は私たち兄弟にいった

あなたたちはもう大人になってきた

これからは別れて暮らすのが私たちの生き方になる

それぞれ安心して食べられる場所を見つけなさい

でも気をつけなければいけないのは人間です

人間はとても強く恐ろしい生き物です

これから私のいうことは必ず守るように

人間の住んでいる場所に近づいてはいけません

人間の作るものに手出ししてはいけません

山の中で人間が近づいてきたら

すぐに逃げなければなりません

これらを守らない者には

必ず恐ろしい死が待っていることでしょう

こうして私たち兄弟は母から離れて

それぞれの場所で生きることになった

兄は海別岳の山の中

私は海の近くで暮らしていた

海の近くは

美味しいキノコやコクワは少ないが

とても美味しい鮭やマスを食べることができる

しかし暮らし始めてすぐにわかったのだが

海の近くには人間たちが多い

それでも最初は見つからないように

夜の暗闇の中で魚を食べにいっていたが

そのうちなんだか慣れてきて

人間が多くいる浜にも行くようになった

最初はおっかなびっくりだったが

行ってみて驚いたのは

人間が多くいる浜は

鮭やマスも沢山いることだ

そればかりではない

人間たちはなぜか

とった鮭やマスを

食べずに並べて置いているではないか

それでも母にいわれた恐ろしいことを思い出し

人間のものには手を出さず

夜の暗闇に紛れて

川や海にいる鮭やマスを食べてはいたが

その年はいつもの年よりも

魚の数が少なかった

いつも腹を空かせていた私は

我慢しきれなくなって

人間が置いていった

イクラの無くなっている鮭や

マスの雄を食べるようになった

しかしこんなに美味しいものを

どうして人間は食べずに置いていってしまうのだろう?

不思議に思いながらも

どんどん慣れて大胆になっていった私は

そのうち空が明るくなり始めても

浜で食べるようになっていった

ある日のこと

私が浜に現れると

そこには人間たちがいて

いつものように長い棒を振り回して

鮭やマスを獲っていた

母にいわれたことを思い出し

とても恐ろしくもあったが

しかし心の中に

母への疑いもわいてきた

人間には私のような爪も牙もない

身体も細くて弱そうに見える

人間は本当に強くて恐ろしいのだろうか?

よく見ると人間たちの後ろには

獲れたばかりの美味しそうな鮭が

いつものように置いてある

どうやら人間たちは

鮭を獲るだけ獲って

またあそこに置いて行くようだ

それを私が食べる

つまりあれは全部私の食べ物だ

鮭を獲るのに夢中な人間たちの後ろから

私は静かに忍び寄った

そして並べてある鮭を夢中になって食べ始めた

すると人間たちが私に気づいた

怖くなって逃げようと思ったその時

なんと人間たちは私を見て

悲鳴をあげながら遠くへ逃げて行くではないか

どうやら母のいっていたことは間違いだった

人間は私より弱く臆病な生き物のようだ

それがわかってからというもの

私は昼間にも平気で

人間たちのところに現れては

彼らが私のために獲った鮭を食べに行くようになった

たまに人間の中でも良くない奴が

私に石を投げてきたりする時もあるが

私がちょっと脅してやれば

やはりそんな人間も逃げてしまう

この浜は私の場所で

この魚は私の食べ物だ

私はそう考えるようになっていた

そんなある日のこと

私がいつものように浜に現れると

すこし変わった人間がいた

私を見て怖がるどころか

その人間はニヤニヤと笑いながら

ピカピカと光る尖ったものを出して

そしてこういった

本当に現れたな

若い熊だ

これでやるにはちょうどいいだろう

その時ふと

なぜか昔母からいわれたことが蘇り

身体の底がゾッとした私は逃げそうになったが

次の瞬間には

弱い人間になぜそんな風に感じる?

ここは私の浜だ

そう思いなおした

私はいつものように人間を脅しつけてやろうと

唸って近づいていった

ところがその人間は逃げない

なんだかおかしい

落ち着かなくなった私は

思わず立ち上がって周りを見た

するとその人間は

ゆっくりこちらに近づいてくる

ゾッとしたが私は毛を逆立て

その人間に向かって爪を振り回した

ところがその人間はそれを避け

なんと私にぴったりとくっついて

私に抱きついた

そしてその人間はこういった

こうすればお前たちは

もう何もできない

その次の瞬間

人間の持ったピカピカするもので

私の喉は切り裂かれ

私は死んだ

こうして私は

恐ろしい人間に殺されて皮を剥がれ

肉は鍋にされ食べられて

余ったものは方々に送られてバラバラとなり

内臓は埋められ虫やキツネの餌となり

私の皮は鞣されて

正式に祀られることなく

その人間の車の中で飾られて

カムイモシリにも帰ることが出来ず

こうしてそこら辺を彷徨うこととなった

これもすべて母の教えを守らず

みだりに恐ろしい人間たちに近づき

人間のものに手を出してしまったからである

だからこれからの若い熊たちよ

人間には近づいてはならず

人間のものには手を出してはならず

人間を見たらすぐに逃げなければならないよ

と海別岳の若い羆が自ら語った