歩論野亭日常

阿寒湖の辺りで

エゾアカガエル五首

やわらかき湿原の水誘われて逢瀬を交わすアカガエルかな

アカガエルか細き声を交わし合う温まる水の落ち葉の褥

切実でかわいらしくも幽玄なエゾアカガエル交情の歌

見えずとも微かに聞ゆ太古より命を繋ぐ蛙のダンス

粘膜と温い沼地に包まれて絡む蛙の歌に聞き入り

エゾリスや熊からの警告

今朝もエゾリスが道路を横切るのを見た。昨日も道の真ん中で轢かれたエゾリスの死体を見た。今年はいろんな人から「エゾリスが道路を渡るのをよく見る」と聞いているが、アイヌの先輩にいわせれば「今年は山の木の実が全然ないからだな」となる。

今年の夏はこの北海道でもとても暑く、しかもそれが長く続いた。そのせいかキノコの生えるタイミングも狂い、阿寒湖のヒメマスは全然獲れなくなり、川の水温は11月になってもあまり下がらず、山の木の実の類はほぼ全滅。阿寒湖畔の森はエゾリスの大好物のクルミがとても多いが、当然クルミも全然ならなかった。

毎年の繰り返しの行動では餌が集まらず、ここではないどこかへと餌を探しに出かけ、慣れない環境で、もしかすると栄養も不足し注意力も散漫な状態で道路を渡り、車に轢かれたりもするのだろう。昨日見た礫死体はミズナラの森のすぐ横の道路の上だった。そのエゾリスは、その森に住んでいたのか、それともどこか遠くから、一縷の望みをかけてその森にやっては来たが、不毛の森を見て絶望したのだろうか。

このところニュースでも全国各地で熊の出没が多発しているのをよく見るが、阿寒湖で見るエゾリスたちの困窮と、おそらく突き詰めれば原因の根は同じところにあるように思う。気候変動により毎年繰り返してきた生活が維持できなくなり、考えずに済んできた問題を目の前に突きつけられ、丸裸で生きるか死ぬかの対処を迫られる動物たちのこれが将来の私たちの姿ではないと、どうも私には断言することができない気がしている。

 

まりも祭の祈り

コロナで長らく中止になっていた「まりも祭」二日目も無事終了。

行進や送る儀式は雨で中止になっちゃったけど、いつも通りみんなで船に乗って、やることは色々とやって無事儀式は終了。また来年もみんなで再会を祝いたいものです。

祭りが終わって各地から阿寒湖へとやってきたウタリのみんなも帰って、コタンで感じる風の冷たさには、例年通りいよいよ晩秋の予感を覚えるけども、明らかに気候がおかしなことになっていた今年はこの北海道の道東でも九月の半ばまで延々と夏が続いて、最近唐突に秋が来たような冷え込み。紅葉も二週間は遅れているらしいし、白糠の先輩も「海で獲れる魚がすっかりおかしい。南の魚ばっかりたくさん入る。よっぽど水温が高いんだよ」といっている。

「まりも祭」は元々、乱獲や水質の汚濁でまりもが激減したことへの反省と阿寒湖の大自然への感謝から、当時の山本太助エカシをはじめとする人々によって始められた、いわばSDGsを先取りするようなアイヌの元々の思想に基づく「奉り、祀り、マツリごと」であって、そこに観光地である阿寒湖の特色も合わさって出来上がった「祭」だ。

特別天然記念物であるマリモは、世界中でも生息地は限られている。そして完全に球形になるのは阿寒湖のものだけといわれている。いまだに阿寒湖のマリモがまんまるになる原因は正確には判明していないが、微妙な環境のバランスの故に成り立つ奇跡的な事象であることは、おそらく間違いない。

マリモの生息地であるチュウルイ湾に浮かぶチュウルイ島に船で向かうと、いつものように圧倒的で雄大な素晴らしい阿寒湖畔の大自然が一望にできて、本当に素晴らしい。でもいつもなら色とりどりの紅葉が楽しめたはずの森が、未だ青い葉の多い様を眺めていると、その中に生きる膨大な、微細な生き物たちの関係性が生み出す精密で繊細で複雑極まりない生命の営みのバランスが、もしかしたら崩れかけているのではないか、まりもを産み出すこの自然は、いったいいつまで存続できるのか…なんて想いが湧いてきて胸をチクリと刺して、地球の宝のような多様木々と生き物の織りなす素晴らしい森を眺めながらもなんだか切ない息持ちになった。

船はチュウルイ島に接岸する。各地のウタリは船を降りて、順路通りに島のマリモ観察センターに歩いて行く。しかし阿寒湖のコタンの面々は逆から歩いて、毎年いつもの儀式の場所である島の森の中に集まって、この我々皆を生かしてくれる、優しくて偉大でおおらかで有り難い、阿寒湖のカムイと大自然へと祈る。生かしてくださっている感謝とともに、人間たちがその自然に対して無法にも傲慢にもならないように自らを律するための誓いを祈り、先祖たちに対して自らが道を踏み外さないように、子孫たちが平穏無事に暮らせるように見守ってくださいと、各々がそれぞれのやり方で祈るのだった。このマリモの住む湖のマリモの島は、そんな祈りにふさわしい場所かもしれない。俺もやはり俺なりに、これからもずっとこの祭りができますように、この阿寒湖の素晴らしい自然がいつまでも有りますように、この素晴らしい阿寒湖や北海道や地球の生き物たちが、愚かな人間たちのせいでこれ以上いなくなりませんように、と祈らずにはいられなかった。また来年もできますように。

 

 

話の通じぬ男

いつもの海辺の散歩道で、海にゴミを捨てようとしている男を見つけた私は、声をかけてやんわりと注意した。
するとその男は、

「このゴミを捨てて害があるというエビデンスを示してください」

と真顔でいってきたのだった。この男、頭は大丈夫か?と疑問に思いながらも、

「え、エビデンス……? いやエビデンスだかなんだか知らんが、海にゴミを捨てるのは…」
「濃度的に問題ない、基準値以下のゴミの量だと科学的に考えられますが、どういう根拠で反対するのか、はっきりとした根拠を示してほしい」

私が言い終わらぬうちに、早口でまくし立ててくる。道理や理屈が通じない。もしかして狂人なのだろうか。

「いや、だから、みんなの海に勝手な理屈を立ててゴミを捨てるのは…」
「そんなこといったってどうするんだ!このゴミの量を見ろ!捨てる以外にしょうがないだろう!そんなに言うなら対案を示せ!できるのか?!できないなら、無責任な、余計なことを言うその口を閉じろ!なにが自然保護だ!この左翼め!」

私は逆ギレして喚き散らす、道理の通じないその男を放置して、その場を離れた。離れたところから、今度はその男に注意した漁師のおじさんに喚き散らしている声が聞こえてきたので、私はため息をつきながらその場を離れたのだった。

自分の人生の主人公は自分

今日は「ガイアシンフォニー第九番」をアイヌシアターイコロで鑑賞。第九にはやられたー、喰らった〜、という感じだけど、まあやっぱフルオーケストラって凄いね。昨日の山下洋輔梅津和時・小山彰太のフリージャズも凄かったなぁ。二日続けて真反対の音楽体験で良かったです。
しかし前々から、同シリーズに、というよりは他のいろんなドキュメンタリーやテレビ番組やなんやかんやになんとな〜く感じてたモヤモヤの正体も、今回で割とはっきりしたかなーと思う。
つまり現代文明や社会の問題点を指摘し自省を促すための相対化の視座として、各地のネイティブや伝統的生活や伝承活動、自然と共に生きる、とかそういうのが使われることはよくあるわけですが、
そういう「素材」の使い方する人って、その民族や文化の一面しか見てなくね?と感じることが多々あるわけです。見たいとこしか見ない、というべきか。だって当然、その集団にもいろんな人がいるわけだし。
伝統文化を頑張って守り伝承し続けてる人たちが尊いのには異論はない。オルタナティブな存在は大好きです。だけど「こういう人たちは素晴らしい!だけど現代人は…」っていうアナタ自身はそうじゃないでしょ?って思っちゃうし、そもそもその人たちは、アンタの描く絵を素敵に形作るための素材じゃねーよ、と思うし、そもそもそういう輩って、その周りのいわゆる「フツーの人」には見向きもしないし、どうだっていいんだよね。なぜならネタにならないから。でもそういうフツーの人の中に面白い人がいるんだけどなぁ本当は。まあいかにもそれらしいもんに目が行くのはしゃーないすかね〜。そういう人に騙されてる人はよくいるよね。
なんか「私いろんな場所に面白い素敵な友人たちがいるんです」的コレクションを自慢する人っているけども、それに似てるかも…属性で人を選ぶ人ってくだらないっスよね〜、なんてすんませんね、こちとら十把一絡げのオタクの汚ねぇオッサンでございやすんで、こんな戯言を吐きたい時もあるんでヤンスが、そんなもんでよければ、誰か俺を主人公に映画でも撮ってくれませんかね?

名もなきミズナラのように

息子と二人でキノコを探しに奥山へと入った。

ガタガタの林道を冷や汗をかきながらなんとか越えてようやくたどり着けるそその場所は、地図には名もない小さな沼の周りの森で、それは大きなミズナラが多く残っている。

耳を澄ませても鳥の声や木々の音が聞こえるだけの、とても静かな所だ。

そんな場所で、ひたすらに目はキノコを探し求め、耳は周囲の音を集めて警戒し、鼻から入る匂いに神経を集中し…

そうすると俺の頭でっかちな部分はだんだんと鳴りを潜め、まるで一匹の動物が、目当てのものを探し回るように、行き当たりばったりに森をフラフラと歩き回ることができるのだ。

そしてそれが、現代の人間社会のくだらなさから解放されたような気になれるその時間が、たまらなく愉快なのだ。

だがふと、少なくとも数100年は生きたであろう、おおきなミズナラが寿命を迎え、その身を地面に横たえているのが目に入ると、

かつて近所のフチが森に連れて行ってくれた時の、彼女の所作が思い出されて、俺は同じように思わずその木に触れ、「アンタ、頑張って生きたね。偉いね、死んでもこうやって、森のためになるんだから」と語りかけた。

そして思った。

フチたちのこの感性こそが「人間らしい人間の感覚」ではないだろうか。

損得に基づく合理性や計画性などではなく、これこそが人間と他の動物を分けるものなのではないか。

そんなことをミズナラの大木が土に還ろうとしている森の中で思った。

そしてこうも感じた。

たしかにこのミズナラは偉い。

願わくば、このミズナラのように、別に世の中に広く誰に知られることもなく、

浪費にしか思えない派手な追悼や悲しみや後悔や諂いなどと共になどではなく、

その生でもたらし残したものや、死後にも営々と残り続け、子孫たちの実りある生に繋がりを感じさせられるような、そんな最後を迎えたいものだ。

この名もなき静かな沼のほとりのミズナラのように。

劇的なカルマの精算

超最高だった今日のフジロックの折坂悠太重奏のMCで彼が「去年はフジの出演を断念した。今年は出た。状況的に何が違うの?といわれると答えられない。でもそういうある意味、場当たり的な試行錯誤こそが生きるということ」的な事をいってて、ほんと日本の空気の変遷を的確に捉えてる、というのと、その中で生きる自分の感覚に正直だなぁ、それこそが現代日本のモンスター詩人の才能だなぁ、と感じた。

 

そういった現実との理屈では説明しきれないリンクという意味では、コーネリアスこと小山田圭吾の見事な素晴らしく気合の入った完璧なライブを感動しつつ見ながらも、彼の身に去年起こった一連の出来事から、人が自分ではコントロールなどできるはずもない、俯瞰すれば宿命か業とでもいうべきしかないような恐ろしくものちに振り返る事でしかポジティブに捉えられないような深い人生の経験を潜り抜けこの目の前の素晴らしいライブに繋がる現実を目の当たりにしながら、同時にあの安倍晋三に起こった出来事を思い出さずにはいられなかったのだった。

 

小山田圭吾フリッパーズギター以降、ソロになってからも小沢健二共々、順調に音楽的なキャリアを積み上げ、そして東京オリンピックの音楽担当という、いわばそれまでの人生の頂点に差し掛かろうというその時に、過去の自分の、Quick Japan誌(当時俺も愛読してて、持ってる) でのインタビューにおける、イキったイジメ発言発掘(のちにこれはほぼ冤罪ということが立証された) をキッカケに、結局は袋叩きからの音楽担当辞任。人生っつーか世の中はそういうことがあるんだよね。最高の手前でのカルマの強制精算。

 

シンゾーも完璧にそうでしょ?
満州でアヘン利権を仕切って、戦後A級戦犯として死刑になるところをCIAに日本をコントロールする道具の一つとして命を救われた爺さんこと岸信介から始まった、同じくアメリカの道具である統一教会とのズブズブな関係。


その祖父の代からの念願である、日本の保守の病的な価値観である戦前回帰を実現するための憲法改正。盲目な羊の群れと化した、善良な茹でガエルのような日本大衆の切ない現状維持への願いに根ざした政治的無関心に胡座をかき、あと二日後の、参議院選挙の結果でほぼ間違いなくシンゾーの夢と野望と矮小な虚栄心が満たされる、彼にとっての人生の絶頂を目前とした、まさにその時に。


その統一教会によって家族を、己の人生を滅茶苦茶にされ、その政治権力とカルト宗教の結びつきを誰もが無視する社会に絶望した一人の男が、栄光の目前のシンゾーを射殺するという、日本の歴史に残る、劇的なカルマの精算。恐ろしいね。


小山田圭吾のように、自分のツケやコントロールできない宿命的な事象に対しても、ある意味謙虚に誠実に粛々とした営為をもって対応することができれば、このような素晴らしい復活劇にもつながり、


あるいは安倍晋三のように、その生まれからくる下駄をはかされた勘違いを最後まで修正できず、咥えさせられた銀の匙を、あまりにも当然の事として、なんら疑問に思うこともなく、その陰で誰かどのように感じているのか、どんなふうに見知らぬ人々が犠牲になり続けているのを本当に想像し感じることもなく生きられた、ある意味では不幸な人生の結果、あのような因果応報としか言いようのない結末に至る。こんな劇的なカルマの強制精算ってある?

 

優れた表現者の優れた切実な表現はこんなふうに、真っ当に色々と感じさせてくれるんだよね…